をとめらに
彼女にどうしようもなく惹かれるのは、本当に自然なことだった。
暖かな風が、通り抜けてゆく。桜はもうほとんどが散ってしまったが、足下には芝桜が可愛らしく咲いている。
私はぼんやりと、足を進めていた。
学校からの帰り道。まだまだ日は短く、学校を出たばかりだというのに、夕日の赤い色がもう遠くに見える。あと少しで沈んでしまうのだろう。
「藤原さんの家も、こっちなの?」
突然の声。それは後ろの方から聞こえた。心臓がびくり、と音を立てる。彼女の声だ、と私にはすぐにわかって、弾みのついた心臓は鎮まることなく。
「うん、そう……」
振り向くと、彼女の視線が、私に注がれていた。まごつきながらも、言葉を返す。
彼女のことは、彼女が私のクラスに転校してきたときから知っていた。二年生の初めに、彼女はやってきたのだ。けれど、今までに一度も話したことはなかった。
ひどく緊張した。自然と足が、止まる。
そうだったのね、とひと言だけ呟いて、彼女はまた歩きはじめた。
「きれい……」
私は彼女に聞こえないくらい、小さく呟いた。
彼女の静かに響く声が、仕草の一つ一つが、妙にきれいで。驚きからではなく、私の胸は動きを速くした。
何か悪いことでもしているような気さえして。
そんな思いとは関わりなく、彼女の歩みは続いたまま、私のもとへ彼女を運んでくる。
あと少し。
――あと、一歩。
「一緒に、帰っても、良い?」
唐突に。私の口から出てきたのは、慌てたような、そんな言葉だった。
自分でも驚いた。何故そんなことを言ったのか。
「もちろんよ」
彼女からは、了承の言葉。それにほっとして、私は彼女の隣に並び、歩き始めた。
鼓動が早くなる。嬉しい。
ゆっくりと二人で歩く中、少しずつ言葉を交わしていく。私が質問して、彼女が返す。
彼女の家が、私の家のすぐ近くだということがわかって、私の心が弾む。もしかしたらまた一緒に帰ることができるかもしれない、と。
肩を並べて歩くなか、私は時々彼女を見ては、きれいだと思いを重ねた。
私とは、全然、違う存在。
彼女は、言ってしまえばかなりの美人で、勉強もできるようだった。けれどそれ以上に、雰囲気がひどく澄んでいて、きれいで。一瞬で私の憧れになったのだ。
「じゃあね、藤原さん」
別れるところに来て、彼女から口を開いた。私も同じように返した。
「じゃあね、白井さん」
私は多分、このとき彼女の名前を初めて呼んだ。
その日は、眠れなかった。彼女のことを思い出すと、胸が慌ただしく、落ち着かなくて。
***
それから私と彼女は、帰りが一緒になったときは話をするようになった。
やっぱり殆どは、私が質問して、彼女が答える。けれど、それだけではなく、彼女から話してくれることもあって。
笑顔も、見ることができるようになった。
「見て、藤原さん」
彼女はこんな風に、よく私を呼び止めた。
「わ。きれい……桜?」
「きれいよね。でもこれは桜じゃなくて……」
彼女は花が好きで、花の名前や特徴など、何でもよく知っていた。似たような花でも、彼女にかかればちゃんと区別がつくようだった。
そんなとき、彼女がきれいに微笑む。
私は、そんな彼女に見惚れてばかりだった。
***
けれど、私は学校では、どうしても話しかけたくなくて。彼女に話しかけることはなかった。
彼女は、いつも一人だった。
多分、とふと考える。
私が一番好きなのは、近寄りがたい雰囲気を持った、彼女だからなのだろう、と。だから、私が近付いて、その美しさを壊してはいけないのだ。
そして。思ってはならないのかもしれないけれど、私は彼女の特別な存在でありたいのだ、きっと。
まわりに気付かれないように、そっと彼女に意識を向ければ、彼女は大抵、ひっそりと文庫本をめくっていた。私は、そんな彼女を見るたびに安心する。
時折、彼女の視線が、何かを訴えるように私を射抜く。けれど彼女だって、話しかけてこないのだから、と私はそれに気付かないふりをしていた。彼女の視線が、私に向くことは日に日に少なくなってきて。
私は、最低なのかもしれない。
いや、きっと最低なのだ。
幾度も、そう思ったけれど、それさえも、私の思いには勝てなかった。
「藤原さん」
彼女が私の名を呼ぶ。
それはいつもの帰り道でならば、彼女の口からよく出る言葉。私という友人を呼ぶ、嬉しくさせてくれる、言葉。
けれど、学校で聞いたものは、クラスが同じだから、というだけの事務的なもので。
それはもちろん、きれいな声なのだけれど、響きも、全然違う気がした。
自分のせいだというのに、どうしてか切なかった。
***
そのまま。そのまま。
私は、たまの帰り道、彼女と友人として話し、幸せを感じた。いつもの学校、単なるクラスメイトとして、大して関わらないという一日を過ごした。
そんなときだった。
私は学校で初めて、彼女の笑顔を見た。それは、今までに見たことがないくらい、きれいに見えた。
でも、どうして……?
そうして、私は彼女の笑顔の先を追って。
わかってしまった。彼女の想いは、そこにあるのだと。
男だった。見知らぬ男子生徒と彼女が、親しげに話をしている。
(どうして……!)
どうして、男なんかと。
真っ先に思ったのはそれだった。
男の人は、所詮、私たちとは違うものだなんて、わかり切ったことなのに。きれいな彼女には、ふさわしくない存在なのに。
このままでは彼女は汚れてしまう。
彼女には、そのままでいて欲しい。
そうして、自分のなかで何かが広がっていく。
いきなりだった。
「白井さん……!」
私は友達として初めて、学校で彼女に話し掛けた。彼女が振り向く。
彼女の近寄りがたさはもう、なかった。それにいらだちを感じずにはいられない。
「藤原さん……」
彼女の目が、どうして、と言っていた。私はその目に微笑みかける。
「今日も一緒に帰って良い……?」
隣の男子生徒には、目を向けなかった。彼女の視線も、今は、私を向いている。
「いいけど……」
戸惑いながらも、彼女は頷いた。
私も笑顔で頷く。
「ありがとう! じゃあ、またあとでね」
彼女は、やっぱりどうすればいいのかわからない、といった表情で。私はそれに気付かないふりをして手を振って、背を向けた。
心のなかに、何かを、こびりつかせたまま。
***
それからは、毎日、彼女に話しかけた。
これ以上、きれいな彼女を失いたくなかった。彼と一緒にいるなんて、許してはならないことだった。
それ以外は、もう気にならなかった。
彼女は、少しずつ笑顔を増やしてくれて。けれど一方で、彼女と彼が一緒にいる場面も、よく見かけた。
たまに、三人で話すこともあって、私は学校で初めて、男の子の名前を覚えることになった。
彼女と一緒にいる彼を見て、わかってしまう。
彼は、彼女のことが好きなのだ、と。
――嫌だ。
そうして生まれる嫌悪感。
彼女と一緒にいる彼は、私たちと違うもの、という以上に、汚れたものに見えてしまう。だって、そういう時の彼は、クラスメイトの一人であるけれど、男の人だったから。
そう。彼はやっぱり男の人だと、わかってしまうから。
それなのに、彼女は彼とも、楽しそうに話している。もしかしたら、私と話すときよりもずっと、いい笑顔をしているのではないだろうか。
嫌だ。……嫌!
苦しくて、苦しくて、彼に嫌がらせをした。小さな、小さなものを。
彼と彼女と、三人で話すとき、傷つけるような言葉を、口にした。少しだけ、無視をしたりした。
私の中に、汚れがたまっていく。広がって、清める事なんてできなくなっていく。だからこそ、願った。
汚れないで。
汚さないで。
近付かないで。
きれいなものは、きれいなままで……。
気付けば、頬を涙が伝っていた。
ああ。
きれいなものは、全部流れてしまったのだ。私にはもう、残っていないのだ。
そう、思った。
彼女がより、大切になった。
だから、言ったのだ。言ってしまった。
近付かないで、と。
そして、酷い言葉を吐いた。必死だった。
彼女は、怒っていた。
屋上。日差しが、熱い。
空からも、地面からも、肌に染みこむような暑さが襲ってくる。
「どうしてあんなこと、したの?」
彼女が問う。彼女の目が、私を睨んでいた。
「白井さんは、きれいよね。だから、汚れちゃいけないの。男なんて、駄目よ」
私がきっぱりと答える。
どう思われようと良かった。気にならないと言えば嘘になるけれど、それが、すべてだったから。
それを聞いて、彼女の目は、一瞬見開かれた。瞳に、何か知らない色が浮かんだ。
けれど次の瞬間には、怒りの表情へと戻る。
彼女の目は、やはりきれいだと思った。怒りで、涙が浮かんでいる。
「幻想を見ないでよ!」
彼女が小さく叫んだ。
まっすぐな瞳が、私を射抜く。
「私は別に、きれいじゃないわ! きれいになんてなれないの!」
そうやって涙を流して、彼女はすべてを、心のままにはき出していくようだった。
そして、私のなかには残していく。
白井さんという、目の前の彼女を。
「藤原さんは勝手だわ。友達のような顔をしておいて、学校では無視をする……どれだけ悲しかったかわかる?」
彼女は私を見つめた。
それは私のなかの何かを突き刺すようで。
思わず、うつむく。彼女の言葉は、正しかった。けれど、彼女がきれいだということは、確かなことで。
「……そんなこと、どうだっていいの」
私は呟く。そのまま、わめく。
「きれいなままでいてくれればそれで良いの。そんなことより、大切だわ!」
私の目からも、涙が溢れて。私はその場に座り込んだ。
きれい。きれい。
きれい。
けれどそれは、自分の一方通行。
そんなことは、わかっていたけれど、悲しかった。
「もう……知らない!」
彼女からも、混乱したような声。そして、目の前から遠ざかる足音。
音たちは空に吸い込まれて、太陽の光と一緒になって降ってくる。じわじわと、肌が、私が吸い込んでいく。
「もう、知らない……」
私は、ゆっくりと口を動かした。
***
次の日から、彼女も、私も、友達として話すことはなくなった。
まるで最初の状態に戻ったかのようだった。互いに、意識を向けることはあっても、口は聞かない。そんな状態に。
けれど、違うこともあった。私の心は晴れることなく、雲が停滞したままだった。
彼女も、徹底的に、私のことを避けているようで、彼ともどこかぎくしゃくしていて。
彼女はまた一人。
私は彼女に目を向けてしまい、胸が、つぶれた。
きれいだと思うよりもずっと。
期末試験に、終業式。
いつしか長い休みに入っても、それは変わらず、私の心は沈んだままで。
外から聞こえるのは、子供たちのはしゃぐ声と、蝉の声。空が濃い青色をしている。
だというのに、何もかもがどうでもよく感じた。心にあるのは、彼女のことばかりだった。
ああ、会いたいな。
自然と思った。会って、話をしたい、と。
どうしようもなく、私は惹かれて。自分は、きれいでなくなった。
だから、きれいな彼女に、より一層惹かれた。他は、どうでもよくなった。
そして彼女と、喧嘩をした。
「……謝らなくちゃ」
言葉が零れ出る。傷つけてしまったのだ。彼女を。
***
「白井さん」
久しぶりの教室。ついさっき、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
私は彼女の名を口にした。静かに、けれど彼女には聞こえるように。
確かな沈黙が、空気に溶け込んでいくようにその場に広がって。彼女は応えない。気付かないふりで、足を速める。
当然のことなのかもしれない。けれど、話を聞いて欲しかった。
会えない間、ずっと考えていたことだった。
「お願い」
私の口が動く。彼女の足が止まる。
「お願い。屋上に、来て欲しいの」
私はそこで口をつぐんだ。反応を窺う。
彼女は、逡巡し、私を見た。私に、小さな頷きが返ってくる。
ほっとした。このまま何も変化がないのは、嫌だった。 ゆっくりと足を進める。後ろにいる彼女も、同じ速度で歩いていた。
辺りからは、沢山の笑い声。けれど私たちの間の空気だけはしんとして。
「藤原さん、どうして……」
彼女が口を開き、私はちょうど屋上に足を踏み入れた。脇に立ち、彼女を待つ。
彼女が私を呼んだのも、いつぶりなのだろう、なんてことを考えながら。彼女はすらりと私の前に立った。さっきの答えを。
「白井さんに、どうしても、言いたいことがあったから……」
そう、言いたいこと。
とりあえず謝らなくては、と思う。けれど何を言えばいいのかなんて、全然わからなくて。
彼女は、怪訝な顔をしている。
「ごめんなさい」
口から出たのはそれだけだった。
もっと、何かを言いたかったはずなのに。一番言いたかったことはなんだろう。焦りばかりが、胸の中に渦巻いて、その奥にあるものを隠してしまっている。
彼女の顔をのぞき込む。
「白井さん?」
彼女は、泣いていた。
どうして?
彼女が泣く理由なんて、全く思い浮かばなかった。悪いのはきれいじゃない私で。彼女が怒るならわかるけれど、泣くだなんて。
けれどきっと、この涙も私のせいなのだろう。
胸が、痛んだ。
「ごめんなさい」
もう一度言い、そっと、彼女の肩に触れる。
振り払われることはなかった。そのまま、抱きしめた。
「私、本当にきれいなんかじゃないの……」
彼女の手が、私の背中に回される。
私は首を振った。そんなことはない、きれいだ、と。私には、そうとしか思えなかったから。
「違うの。本当に、私はきれいでありたかったけど、やっぱりきれいにはなれなかったから……ふりをしたの」
混乱した様子のまま、彼女は続ける。
「藤原さんは、私にだまされたのよ。それがわかって、こわくなったの! だから……!」
そう叫んで。彼女は私の腕を振り払った。そのまま走り去ろうとする。
この前のように。でも。
「待って!」
私は彼女の腕をつかむ。彼女が言っているのは、本当のことなのかもしれない、とも思った。
でも、そんなことはもう良かったから。
彼女が傍にいることの方が、もう、よほど大事で。それを今、伝えなくてはならなかった。
「もう良いの。白井さんがきれいであろうとなかろうと。友達でいたいの」
友達でいたい。
最後のひと言。彼女の肩が震えた。
私は腕をつかんだまま、傍に寄る。彼女の横顔が見えた。
「友達でいて。お願い」
するりと出た言葉。
きっとこれこそが、一番言いたかったことなのだ、とわかった。
私は、汚い。
憧れた彼女も、もうきれいではなかった。
けれど、私は彼女が好きだった。私が思っている通りならば、彼女も私のことを嫌いではないだろう。そうならば良い。
彼女は、もしかしたら、少し私に似ているのかもしれなかった。
じ、と彼女を見つめる。
彼女は小さく頷き、私に体を向けた。真剣な目。
「ごめんなさい」
小さなつぶやきと共に、彼女の腕が、私の背中に回った。
抱き合う。
まだ空気は暑いけれど、暖かい、と感じた。
きれいでは、ないのかもしれない。
けれど、十分だった。
「ありがとう」
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えと、とりあえず、百合?
いや、というよりも何なんだろう?
良く分からないものです。